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虐待への支援

 昨日のブログに書いた日本小児保健協会会長の小枝達也先生のコラムの中で一番気になったのは、『養育する大人のぶれない基準が子どもの価値判断の軸となり、その子の為人(ひととなり)を育てる。この基準が気分次第でぶれるのが虐待の本質であると思う』という部分です。

 養育者が、いつも同じ基準で子どもの要求に応えることが、基本的信頼感に繋がり、基準が気分次第でぶれるのが虐待の本質・・・例えば、お菓子を食べても何も言われない日もあれば、同じようにお菓子を食べるとひどい言葉で𠮟りつけられるというようなことが日常的にあると、子どもは養育者の顔を見て判断せざるを得なくなります。


 随分前に勤めていた保育園で主任をしていた頃、些細なことで暴言を吐く2歳児の子どもがいました。あまりに激しいのでどう対応していいか分からず、お母さんと面談をしました。


 暗い表情のお母さんは、ご自身がお母さんから虐待を受けていたこと、だから子どもには同じ思いをさせたくないと思っていることを話されました。そのお母さんは、気分の落差が激しく、子どもを抱きしめたり、「かわいい」と言われる日もあれば、子どもが話しかけても無視したり、ひどい言葉を投げつける日もあり、子どもはいつもお母さんの顔色ばかり見ていました。

 養育者(母親)だって、気分が良い時もあれば、落ち込んでしまう時もあります。でも、それがあまりにも極端だと子どもはどうしていいか分からず、常に緊張している状態なので相当なストレスを溜め込んでしまうのでしょう。そのストレスの捌け口が、保育園での行動に表れていたのだと思います。

 虐待の根は深く、世代間連鎖は断ちにくいことを実感します。日本の虐待への対応は、虐待している養育者を監視されているような気持ちにさせてしまうのではないか?だから困っているとか助けてほしいという声を上げにくく、孤立させてしまうのではないか?という記事を読み、考えさせられました。虐待されている子どもだけでなく、虐待している養育者も助けを求めています。養育者一人が抱え込まないような支援が求められていると思います。


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